昭和45年11月05日 夜の御理解



 這えば立て立てば歩めの親心。これが子を持つ親の子に願う親の祈りなのです。本当に這えば立て立てば歩めと言うのです。信心させて頂いて私共がおかげを頂くと言う事は、天地の親神様の心に、愈々適うて行く生き方。それが何かの機会又は、何かのチャンスを頂いた度に、本当な事へと信心が進展して行く事。これで良いと言う事は絶対ない。そうだったらそれからの信心の成長はない。それは丁度五つになっても、六うつになっても這い這いだけしか出来ませんね。
 歩ききらん子供を親が見るように、まあ切ない事であろうと。本当にこの子は立ち直ったらどうだろう、歩きなさったらどうだろうと。それが親の願いなの、親の思いなのです。だから、私共はね、もう何かの、機会を捉えては、またチャンスを頂いては、その都度に、本当な事へなって行くところのおかげを頂かなきゃいけません。御教えを頂きますと、愈々その本当な事という、その色々頂くのですけれども、そりゃもうそうするがほんなこつばってんがとこう言う訳ですね。
 もうそうするのが本当だけれども、と言うてそこん所に腰掛けておるけれども、何かの機会に腰かけておるのが立ち上がって、いわゆる本当な事へなって行く。そこに本当な事にならせて頂く喜びがある。本当の事にならせて頂く、その本当な事になって行くから、おかげが愈々本当な事になって来る訳なんです。これはもう理の当然なんだ。ですから何かのその機会、チャンスを捉えては、そういうおかげを頂いて行けなきゃいけません。今朝の朝の御祈念に、若先生が昨日からですか。
 特別御祈念が形の上においては、一つも変わりませんけれども、内容においては特別祈念を皆さんでなさっておられますから。その先唱をさせてもらう。先生の神様に向かう態度も違うわけですね。丁度あの夏の御祈念の時には、とにかくもう力一杯もう心の、腹の底から芯から例えば大祓いでも挙げておるといった一生懸命。皆さんも矢張り一生懸命なのです。まあそれは有り難い事だと思うんですね。で神様からねお知らせで頂いた。丁度若先生がお芝居で、伊勢音頭と言うのがありますよね。
 あの福岡貢が出るお芝居。あのあん時にあれはあの白に、いわゆる白がすりを着てますよね、夏のお芝居ですから。けれども私が頂くのは黒にキナのかすり。まあ品のいい言うならばかすりですね。そのどういう意味か私はまだよく分からないんです。黒いまあちょうど銘仙のような感じのね、黒にキナのかすりのもう本当に上品な着物を着てるんですよ。丁度まあ大島か何かの様な感じでね。そしてそのそれこそ帯をしっかりこう締めて。それがそのまだこれに袴をはいたら、もうそのまま侍の姿であろうと。
 その大小をこう両手に持ってるんですね。大小って長い刀と短い刀なんです。所がそのあまりにこの帯をしっかり締め過ぎとるもんですから、刀が差されんち言うあんまりこれが窮に締めて。あんまりしっかりこう締め過ぎてるから。同時にその着物が肩乱れに着てる。まあ下着の方からいっでょ着直さにゃいけんのに、下着もどっかこうどうか衿がこう、出過ぎたような感じで着てる。上のこの着物は中々、本当に若先生に相応しいち言うか品の良いかね。そういうまあちょっと想像してみて下さい。
 あの福岡貢という感じだったと言う事も、そのそこに矢張り意味があると思います。これは若先生だけの事じゃありません。皆さんの例えば今度の幹三郎の事で、それこそ一心の真を捧げて、一生懸命願っておられる、その姿をそのままそれなんですね。今日の御理解の焦点であります所の、一心の真を捧げると言うてもです、金光様が仰ったと言う、肉腫というお届けに対して、内腫ですかと仰った。内腫というのは心に溜まっておるその何ですかね汚い血膿のようなものでしょうよ。
 肉腫がやっぱそうでありますなら、内腫というのはそういうもの。私共の心の中にもうこれは極まりない事ですけれども、限りない例えば綺麗になって行こうとする為には、先ず自分自身のその汚さと言うか、間違っておるとこって言うか、見苦しい所と言うかそれを改めて行くと言う事が、いわゆる信心なんですね。がしかもその着物が下着の方から着直さにゃいけん。しかもこの着物もようとこう繕うてね、言うならば肩乱れでないように着てしかも帯もね。
 締め過ぎらんように適当にしなければ、これが大小が差さらん。しかも鞭の袴もつけなきゃならない。だからまだその改めねばならん事が沢山あると。しっかり信心の帯をせよ等という御教えがありますよ。けれども帯だけをしっかりするという、帯をする前にまず下着から着物を、きちっと着てからそれもしっかり、もっとね腹がひょうたん腹になるごと締めたってそういう意味じゃない。適当にきちっとだらしがなくない、きちっと誰が見ても、きちっとした様な帯の締め方というのがある訳なんだ。
 同時にその大小がここに、たばされなきゃならない。私は特にそういう大小を持って、その来ると言う事は、まあ町人とか侍とかとこう申します。言うならば侍というのは今の合楽にはですね、そういうもう町人から侍に進展して行くと言うか、もう着流し的な信心から、羽織袴をつけてきちっと大小を手挟まして貰う程しのです、きちっと信心が合楽全体に求められておる時だと思いますね。大小と言う事は侍、侍と言う事はね矢張りその言葉遣い一つにおいてもです。
 ちゃっと折り目正しい行儀作法、侍としての所謂エチケットというものを、信心させて頂くなら信心させて頂く者のエチケットとして。例えば若先生で言うなら、若先生なら若先生らしゅう、教師なら教師らしゅう、取次ぎ者なら取次ぎ者らしい事へ、いつもそれが少しずつでも本当な事へなって行かなければならないと言う事なんです。そりゃ一生懸命願う。その願っちゃいけないというのじゃない。願う事は有り難いのである尊いのである。けれどもそれよりもっと大事な事はです。
 所謂きちっとした信心が、常日頃出けてなかった所が、きちっと出ける事を神様が先ず願って御座る。言うなら町人のような信心から、侍に引き立て取り立てて下さろうとしておる願いをそこに感ずるです。だからここに一つあの問題がありますね。信心でも何か苦しい事があって、その事をざぁっと言うてね、あの時にはですね、その本当な事にならんのですよ実際は。だからこそ信心は常日頃地を肥やしておけ。地を肥やしておけば常日頃の信心が大事なのです。
 さあだからと言うて成程、特別御祈念も良かろうけれども、その内容がねいわゆる平生と変わらないと言った様なね、信心なんですよ神様が求め給うのは。所がその平生と同じという信心なのですけれどもです、その平生に出けていなかった所をです、何かの機会に出けて行くおかげを頂いて行かなきゃならん。初めて例えば金光様が内腫と仰ったと言う事から、本当に内腫どころではなかろうと思われる様なものを。
 自分の心の中から改めて行く。形の上においてもいわゆる侍なら侍らしい、きちっとした日常生活と言った様なものがね。きちっとして出来て行く事を神様は願うて御座るなと。とにかく信心の帯をせよ、しっかりせよと仰るけん、そこんとこだけをです、さあ御祈念だけを神様に噛みつくようにして、願うと言う事はね。それは願いを聞き届けて下さるにしても、それでは大小がたばさまれないそれでは。腹がここに刀というぐらいに、その帯を締めておる所を今日は頂いた。
 同時にその福岡はぁこれは福岡貢が着るような着物。けれども福岡貢はあれは白がすりだったのに、それに反対のかすりだなと。黒とキナの所に非常に私は、これは私自身が感じさせて頂く事だったんですけれど。意味が色々深いとこう思います。ですから私共が成程這えば立て立てば歩め、それが神様の願いである。いや親としての願いだ子供に掛ける所の願いなんです。
 ですから少しでも本当な事になって行くと言う事を、願って止まないのが親であります。ですからさあ日頃は言う事は聞かんなおっても、さあ何かの時にはですね、それがすきっとこう改まって行かれてね、いわゆる正確な本当に侍のような気分でね、日々が過ごせれる。言うなら折り目正しい信心生活をさせて頂く事。その事こそを神様が願っておられるのだと。言うならばまあ町人的な信心ち言うなら、まあドライな信心とでも申しましょうかね。割りきった信心じゃなくて。
 本当に実意丁寧神信心こそが、いわば金光様の信心の、まあ筋金でなからなきゃなりません。同時に金光大神が歩かれたご信心というものがです、まあ歩かれた後と言う様なものを、矢張り神習わせて頂けなければならんのだけれども出けない。出来ないけれどもどうでも、例えば願いを立てる時にです、出けなかった所を例えば、形の真似からでも入らせて頂いてこうある事が、成程気分が良いもんだ、有り難いものだという体験が伴うて来る。そこから一段一段本当な事へなって行く信心に。
 矢張り育って行かなければいけない。今朝から私そういうお知らせを頂いてから、これはあの丁度若先生が先唱しておりましたから、その若先生で教えて下さったけれども。これは若先生だけの事ではない。私を始めほんならここの、一生懸命願っておられる、それが成程返って締め過ぎる様な事があってはいないだろうかと。もう少しゆったりとした気持ちで、それでもやはり願わなければおられない、その願いが祈りになって来るというのでありしかもそういう時にです。
 肩乱れに着ておる着物は、まっすぐに着せて頂いてからの、しっかり帯をせよであり、しかもそこに大小をこう持っておるけれども、その大小が帯に挟まらないような締め方ではない。そこにぴしゃっとこう大小を指して袴を履いて、大小をたばさんでいわば一つの言うならば侍の姿を、皆さんが思うて下さりゃ分かるわけ。しかもそこには町人と侍と言や言葉づかいから変わってくる。そこに折り目正しいいわば信心が出ける所からです、言うなら折り目正しいきちっとした信心が生まれて参ります。
 もうこれは私がもう言い出した事だと、自分でも二十年来言うて来た事は、信心に節度を持てと言う事であります。昔兵隊さんが使った言葉なんです。もうとにかく折り目正しい。とにかくきちっとした所は、きちっとして行かなきゃいけん。これだけはあの人は間違わんと言った様な、信心に一つの節度をつけて行け。だから日頃節度がつかなかった所を例えば、この様なチャンスを与えられた時に、きちっとした信心が出けて行く事が、所謂きちっとしたおかげが約束される事は、もう勿論である。
 まあこれは私は自分でずっとこう思うて来てですね、私が成程信心の節度と言う事を言うほどしに、私も私なりにまあきちっとしたもので修行させて頂いて来たと、こう思うんです。だから私が受けておるおかげは、実にきちっとしたおかげを受けて来ておると思うんですよね。いわゆる節度のある信心をすりゃ、おかげの方にもきちっとした節度のあるおかげがもう伴うはずであります。日頃四だ五だにしておいて、さあ何かの時に一生懸命、神様に噛みつくように願う。
 成程それは変わったおかげを頂く為には、変わった信心も修行もしなければなりませんけれども。その願い方縋り方がです言うならば、まあ一つきちっとしたその身なりであり、いわばこの身の沙汰その言うなら下着から着直してみる。自分もその着物なら着物の着方がですね、きちっと来ておるかどうかと言う様な所を、一つ見極めて。だらしがない所があるなら、それをきちっと私は着習うて行くと言う事がです、きちっとした信心を習うて行く事になるとこう思いますね。
   どうぞ。